市民のための美術入門3、抽象絵画のすすめ

描いてみたい人のための抽象絵画の考え方や描き方や入り方などについて、できるだけわかりやすい言葉で書いていきたい。姉妹編「1、油絵のすすめ」「2、デッサンのすすめ」とで「絵画とは何か」にも行き着きたい。

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抽象の時代は去ったか?

 さる美術家団体の機関紙に「ニューヨークでもパリでも、抽象絵画は過去のものとして画商たちから相手にされなくなっている、」というようなことで抽象の時代は終わったと言う記事が出ていた。
 たしかに近年のコンテンポラリーアートの動きを見ても抽象表現は少なくなり、具象と言うか具体とでも言うべきかものや映像に頼った表現がはばをきかせている。日本では特に、写真的な細密な描写技術を競うがごとき傾向が活発化しているように見える。しかしその殆どの作品を見るに、私には具象の限界がありありと見えるように思われて興ざめすることが多いのだ。行き着くところは結局写真ではないのか。写真技術の発達に具象絵画は追いつけるのだろうかと思ってしまう。せいぜい印象派風とかセザンヌ風とかあるいはクリムト風とかアレンジしてみても、本当の意味での独創的な表現の可能性は表れて来ていない。
 一方、抽象の表現性には限界があり、既にその可能性は今までの作家によってほぼ試みつくされてしまっているのかもしれないとも思うが、それは具象だって同じようなことだと思う。
 売れるかどうかと言うことでなら確かに、具象の方が一目見た眼に分りやすいから売れるだろう。しかし描く立場からして、どちらが描いて面白いかと言うことで比較してみれば、どっちもどっちではないかと思う。
 これまで抽象を描き続けてきた私にとっては、抽象で追及するべき世界はまだまだ広がっており、一点描くたびに新しい世界が広がってくるように見える。それに日本国内で見るなら、今やっと抽象が一般的に認められてきたと言うくらいの段階に見える。この数年、身の回りに抽象表現を試みる人が増えてきつつあり、気軽に抽象表現を楽しもうという雰囲気も広がりつつあると思う。
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  1. 2009/03/30(月) 09:45:22|
  2. 絵画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:14

コメント

具象と抽象の問題はいつの時代にも問われるものですよね。私は抽象画が好きなのですが、
あまりにも単純化しすぎと思われる幾何学的な抽象画なんかはちょっとって感じですね、写真みたいな細密画もすごいとは思うけど、誰もかれもが写真みたいに描く競争をしてもしょうがないですし。
やみくもにとことん抽象化ってのは確かに終りだと思いますが、例えば自我の根源や潜在意識など、テーマがある抽象画ってのはまだまだありだと思います。
  1. 2009/07/19(日) 18:54:19 |
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  3. #-
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表現と構成

 具象と抽象の間にも多くのヴァリエーションがあって、「写生は抽象の始まり」といわれるような段階から、構成的な具象や表現的な具象、わずかに形が読み取れる位の抽象に近い具象などなどありますね。
 純粋抽象に見えても何らかのイメージ(風とか雲とか血とか肉とか・・・)から発想される表現主義的な抽象もあれば純粋に構成的な作品もあります。私は表現から入って構成に向かう方向をとっています。その際に明確な形(眼とか顔とか花とか)が現われると表現の展開の自由が損なわれるので、それらを排除していますので、一見純粋抽象に見える作品を描いているのですが、何らかのイメージは常にあるわけで、具象絵画とも言えるのではないかと思っています。
  1. 2009/07/22(水) 09:04:18 |
  2. URL |
  3. hmm58322 #drVJvYFs
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抽象とは何か

初めまして。
あまり一般的な意見ではないかもしれませんが、
私は「抽象が終わった」というよりも、モダニズムと呼ばれる印象派から始まる西洋美術の革命運動が終焉したのだと考えています。
抽象はいわばモダニズムの極限にして最後の形だったのではないでしょうか?
それは革命を成し遂げ、西洋古典美術の技法やヴィジョンを粉微塵に砕き尽くしてしまったために、もはや戦う相手を失ってしまったのではないでしょうか?
後にはただ、廃墟だけが残り、「芸術は爆発だ!」などど言ってみても、それはもはやセザンヌやゴッホやピカソやモンドリアンのような「爆弾」にはならず、一回性の「花火」となって、新しいスタイルの造形的基盤を提供することができません。
だから、現代の美術家の主流は、ダダイストのデュシャンの便器を二十世紀最大の美術(?)として賞賛するのではないでしょうか。
あれは造形芸術否定ですから。
抽象が終わったのではなく、造形芸術がもはや美術の主流ではなくなってしまったのではないでしょうか?

もうひとつ、別件かもしれませんが、
抽象と具象の境界線はあると思われますか?
あるいは、抽象の定義について、どう考えておられますか?
  1. 2010/07/07(水) 13:54:12 |
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  3. hydorogen #r2..6obQ
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リアリズムの行き着く先は写真か?

コメントを連発して申し訳ございませんが、どうしても気にかかる問題があるので、言わせて下さい。
リアリズム美術がつまるところは写真表現であるというのは、いかがなものでしょうか。
どうも抽象画家は、写真をリアリズムの極のように誤解しているのではないでしょうか。
細論は長くなるので省きますが、「写真」というのは誤れる訳語であって、本来は「フォトグラフィ=光学的複写像」なのです。
それは機械的な光の「複写像」として正確ではありますが、必ずしも光を反射する「実体」を正確に映し出すものではない、ということが、絵の基礎的な勉強をしている(はずの)抽象画家に、どうしてわからないのか、とても不思議です。
多くの写真(あるいはそれを模した素人騙しの三流イラスト絵画)には、ヴァルールによる空間表現もなければ、影と暗さの区分も不分明です(だから扁平)。
また、逆遠近法その他の手法で、人体その他の描写対象の構造や各部の繋がり、立体的な傾きにおけるプロポーションなどを表すことが、充分にできていません(だから不自然に形が歪んで見える)。
これらの欠点は、古典画の優れた作品と見比べれば、一目瞭然です。
簡単に言えば、実体や空間が充分に見分けられていないのです。
テレビで心霊写真というのをよくやっていますが、あれは必ずしもトリック写真ではありません。
もし、写真が文字通り真実を映すものであるならば、俗物オカルトの写真の、人の後ろに異常に小さく見える幽霊の顔や、体の一部分が千切れて無い人体、胴体と繋がっていない宙に浮いたお化けの手首、等々の超常現象も「真実」ということになってしまいます。
意図せずとも、ときにはあのような撮れ方をしてしまうのが、「写真」というものなのです。
ああしたものは、「写真」が必ずしも「真実」を「写した」ものではないことの、逆証明ではありませんか。
ましてや写真に、レンブラントやファンアイクなどの、古典画の素晴らしいマチエールから来る、複雑な光の効果による、闇の奥行きや物的質感の深さなど、望むべくもありません。
リューベンスの、肌の中間調子の部分に見られる、オプティカルグレーの不思議な効果、肌の厚塗りによる実体的な質感の効果などが、写真にありますか?
素人や、バカな口だけの批評家ならともかく、絵の基礎を学び、古典画も多く見ている(はずの)抽象画家が、少なくとも「画家」の一人として、どうしてリアリズムがつまるところは写真表現だ、などという俗物の戯言を奉じるのか、全く理解できません。
こんなことは、石膏デッサンを学ぶ初心者だって、もし真面目にやっていれば、いやおうなくある程度は理解していることでしょう。
  1. 2010/07/09(金) 12:30:47 |
  2. URL |
  3. hydorogen #r2..6obQ
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具象と抽象

 hydrogenさんコメント有難うございます。鋭い御指摘で考えさせられる問題をいくつか含んでいます。
 まずモダニズムの終焉と言う見方は当たっているように思えますが、それはやはり鑑賞者の目から見た判断ではないかなと思います。終焉と言えば具象も抽象も含めての終焉で、どちらも行き詰まりの袋小路でジタバタしているように見えますが、描く立場で言うとまだまだ描く楽しみと言うか可能性の空間は広く残っているわけで、ネオダダやもの派や映像表現がいくらコンテンポラリーで幅を利かせようと、絵の具で描く人は未だに一向に減りません。描くことが本能に近く、人間の精神的肉体的な働きとしてあるからではないかと思います。原始美術以来の造形美術の伝統を見れば分ることですし子供が描くことを好むことからも伺えることでしょう。
 具象と抽象に境目はあるのかのご質問には、ないとお応えするしかありません。モンドリアンの作品ですら障子のサンを連想させるように、全く具象的なイメージを伴わない絵画を描くことは不可能でしょう。一方いかなる描写絵画でも単純化や構成への配慮なしに描くことはできないでしょう。
 写真はリアリズムの究極だとは私も思って居ません。写真は真を写さないとはブログノ本文でも言って来たことです。ダヴィンチにしろレンブラントにしろベラスケスにしろゴヤにしろマネにしろモネにしろゴッホやセザンヌにしろ、それぞれのリアリズムがあり、ただの表面的な描写に止まらないプラスアルファ(クレーの言う精神的なもの)が描きこまれているから優れたリアリズム絵画といえるのです。
 私は昨今のリアリズム絵画と称して流行している表面的な微細な描写主義を、浅薄なものとして排撃しているのです。あんなものは、ただの拡大された写真にも及ばない表現力しか持ちえませんし、まあせいぜい、描写の技術をひけらかして見る人を驚かそうと言う企みくらいなものでしょうから。
 抽象と言う名称にも問題があり、非形象(ノンフィギュらティフ)と言うべきかと思いますが、「新たな空間の創造」と「内面のより率直な表現」と言う二つの目標がある限り、まだまだ可能性のある表現分野だと思っています。
 
  1. 2010/07/10(土) 09:19:08 |
  2. URL |
  3. dantuku #KekwlZhA
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抽象画の本質はフォーマリズムか?

抽象具象の区分の問題については、私も境界線はあり得ないと考えていますが、とりあえず抽象画というおおまかな美術の「カテゴリー」は存在します。
一般の美術史(西洋中心の美術史)では、これらの抽象画というカテゴリーに入る絵は、モンドリアンやカンディンスキーその他の人々によって、近代になって初めて描かれ、その全盛時代は1940~1950年代あたりだったということです。
ところで、私がこれらの抽象画運動にとって不幸なことだったと思うのは、抽象画家たちがその運動の中心にいたというよりも、本来脇役であるはずの評論家が、まるでその運動の中心人物であるかのように、極端な影響力を持ってしまったことだと思います。
シュールの場合も詩人がボスでしたが、あれはもともと造形運動ではなく文学運動だったし、詩人は批評もしますが、いちおう(言葉の)芸術家でもあります。
しかし抽象は完全な造形運動であり、その主体は本来は作家たちのはずなのですが・・・政治に例えれば、マスコミが国会に乗り込んできて、政治を支配してしまったような状況だったのではないでしょうか?
この批評家により、西洋美術の目的は絵画の平面化にあった、などという、(古典に対する反抗運動としての)モダニズムのみに着目した極論が幅を利かせ、彼の思想のフォーマリズムが、抽象画のお題目にされたために、世界的な抽象の流行が、この形式万能主義で支えられるような状況になってしまったのだと思います。
その結果、抽象画の広がりとともに、「内容などは誰しもが持っているものだから、芸術の本質ではない、芸術の形式だけが問題なのだ」といった形式万能思想が、一世を風靡しました。この思想に従えば、例えば、レンブラントはあのマチエールが素晴らしいから、優れた芸術なのであって、そこに描かれているものはどうでもいいのだ、ということになりかねません(現にこの批評家はそのようなことを言っています)。
で、ものごとに流行り廃りがあるのですから、抽象画がその全盛時代を終えた暁には、この形式主義によって解釈され、また抽象の流行に乗っかっていた沢山の作家達がその形式思想の下に創作した、多くの「抽象画」というものが、内容のない、壁紙のような形式(デザイン)芸術とみなされて、多くの人に省みられなくなっていったのではないでしょうか。
しかし、もし抽象が形式主義(絵画の形式や構成要素こそが芸術の本質)という思想から生まれてきたのであれば、その主張はラテン系のナビ派あたりに最も近く、事実上抽象画が(少なくともモダニズムの範囲内では)北方系のヨーロッパ人によって初めて描かれ、シュールや表現主義、あるいはモンドリアンのような神秘主義思想を土壌として生まれてきたことが、説明できないのではないでしょうか。
  1. 2010/07/11(日) 14:12:22 |
  2. URL |
  3. hydorogen #r2..6obQ
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抽象とパフォーマンス

もうひとつ、一般の美術愛好家や多くの画家が、抽象美術をきな臭く感じる理由として、そのパフォーマンスのように見える芸術上の姿勢があります。
彼等(抽象作家)は、本当に(真面目に)、ああした抽象作品を「造形美術」として作り出しているのだろうか?
彼等の作品の目的や動機は、本当に造形的なものなのか?という疑念です。
何年もまえに、知人を連れて、とある現代美術専門の美術館を訪れた際に、学芸員の説明コースに参加して、そのなかで、アメリカの抽象表現主義の大作の説明を受けたのですが、その作品は、巨大なカンバスに、ただ一色の色が塗ってあるだけのものでした。
なんでもそれは、アメリカの国宝級の絵画であり、作者は宇宙論に通じており、云々という説明でしたが・・・連れの知人が「ふざけんじゃないわよ!そんなことに何の意味があるっていうの!?」と怒り出してしまい、なだめるのに大変でした。
この種の作風を、フィールドカラーペインティングというらしいですが、真っ白や真っ黒などの一色だけのカンバス(たんなる板にしか見えない)が並んでいるのを、有難がって拝んでいる人達を眺めていると、一種の新興宗教のモニュメントのように見えて、ちょっと不気味で滑稽な感じがします。
ある作家は、このような一色だけの絵を、何年にも渡って延々と作り続けたということです。
もし、その作家が生きてるときに世に認められず、ゴッホやセザンヌのように、一人で自分のためだけに作品を作り続けたとしたら、はたしてこのような一色だけの板を何枚も量産し続けたでしょうか?そんなことは考えにくいと思います。
私は、セザンヌもピカソもマチスもジャコメッティもモンドリアンも、ある程度理解しますが、この一色だけの板が「造形作品」である、といわれると、さすがに疑わしくなります。
デュシャンの便器は、トリックであるにせよ、まだしも正直なところのある「いたずら芸術」でした。彼はモダニズムのなかで唯一造形を否定した流派のダダイストであり、態度は首尾一貫していたし、その点では立派であり、彼の意図はあきらかなのです。
「あの便器を、美術館に置いてあるだけで、造形美術として崇める、裸の王様の信者どもを、皆で腹を抱えて笑いましょう!」
ところが、この種の裸の王様の信者を、もったいぶりながら、延々と飯の種にし続けているのが、ある種の前衛芸術であり、ある種の抽象美術ではないでしょうか。
それはもはや、モダニズムの仮面を被った社会派芸術(?)であり、非造形芸術と言っていいと思います。
同様のことは、アクションペインティングなどという代物にもいえることです。
絵とは(もしそれが造形美術であれば)、その作品、その出来上がった結果が全てです。
それを、バケツに穴をあけて絵の具を滴らせながら転げまわって描こうと、ターザンのように紐にぶら下がって足で描こうと、髪の毛に絵の具をつけてそれを振り乱しながら描こうと、そんな描く過程のことは、造形作品の価値には、なんの関係もありません。
ところが、その奇妙奇天烈な描く行為を、写真やビデオにとらせては、バカな野次馬的鑑賞者を面白がらせながら、パフォーマーよろしく名を売っているのが、この種のアクションペインターたちなのです(この悪しき習慣は、程度の差こそあれ、書道にも見られます。現実には下手糞なだけの字を、たんに巨大な筆で書いて見せて、なんの意味があるのでしょう?)。
こんな連中は、造形芸術家の名に値しないことは、明らかです。
私は抽象が、モダニズムの極限だ、と言いましたが、抽象全盛時代に、モダニズム後の、パフォーマンス的社会派芸術、非造形芸術、反造形芸術の姿が、すでに見え隠れしていたのだと思います。
  1. 2010/07/11(日) 19:14:48 |
  2. URL |
  3. hydorogen #r2..6obQ
  4. [ 編集]

フォーマリズム??

 申し訳ないが私は文学は読むが評論は滅多に読みませんので「フォーマリズム」の意味さえ定かには理解しえません。
 評論と言うものは常に作品の後から追っかけてきて、一生懸命何らかの既定の枠に作品をはめこもうとするものだくらいにしか思っていません。しかしこれが一般社会と作家との橋渡しをやることになっているのが現状で、作家としては無視するわけにもいきません。
 抽象絵画の極限として描かれた単色の巨大な色面作品。その価値は極限としての歴史的価値ということかと思いますが、殆どデュシャンのダダイズム(造形芸術の否定?)と同様の価値も存するでしょう。描いた作家には表現の喜びも造形の喜びもあったかどうか、マゾヒズム的なあるいは禁欲主義への徹底の快感はあったかも知れません。もっとも一定の色彩の色面が、強い表現的なインパクトを持ちえることは事実ですが。
 繰り返して申しますが、いずれにしても、描く者にとっては、外野がどう騒ごうと、まだまだ造形上のあるいは表現上のフロンティアは広がっており、具象であろうと抽象であろうと描きたいものを描きたいように描く喜びを続けることは可能なことだということです。
 とくに抽象を理解できないという方々には、「抽象表現を試みてみれば表現世界が広がりますよ」という意味で、このブログを書いてきました。
  1. 2010/07/13(火) 10:03:09 |
  2. URL |
  3. dantuku #-
  4. [ 編集]

そうですか・・・
フォーマリズムが抽象を極限まで推し進めてそのブームを終わらせたようなものですがね・・・
私が代表的な抽象画家について感じるのは、その進歩や変化のなさです。
モンドリアンも抽象に至るまでは目覚しい変化を遂げていたのに、抽象以後はほとんど堂々巡りで似たようなスタイルを繰り返します。
マレービッチなどは、つまらない自然主義に退行してしまいました。
抽象は極限であるが故に、そこから先が無いのでしょうか。
まあ抽象と具象を区分せずに、写実画も織り交ぜてやっていけば、いろいろ新たな発想が湧くのでしょうね。
また、抽象が形式主義から開放されれば、いろいろな可能性と結びつくことでしょう。
抽象画と具象画を区分するのはもう古いのですから、もうそれらを対立物と見なす必用もありませんしね。
抽象画が神秘主義やシュールや表現主義から出てきたのは、彼等北方欧人の先祖が、ローマに具象芸術を強要されてきた、そのラテンの頚城から、モダニズムによって開放されたせいかもしれませんしね。
だとすれば、抽象画は、見えないものを描くリアリズムと言ったほうが、正しいかもしれません。
私にとっては、こちらの方が、リアリティーがある見方ですね。
  1. 2010/07/16(金) 00:49:30 |
  2. URL |
  3. hydorogen #r2..6obQ
  4. [ 編集]

抽象にもリアリズム

「見えないものを描くリアリズム」とは面白い、的を射た言い方です。
  1. 2010/07/17(土) 08:55:56 |
  2. URL |
  3. dantuku #drVJvYFs
  4. [ 編集]

時代について

もちろん、モダニズムの終焉とは、個人的な鑑賞者や作家レベルの話をしているわけではありません。
仰るように、いつの時代にも、作家個人が新しいものを生み出す可能性(フロンティア)は存在しています。
しかし、問題なのは、仮に新しいものが生み出せたにしても、それが後世の作家達に対する、新たな造形的基盤になるか否かということなのです。
モダニズムと私が言っている流れは以下のことを指しています。
マネやモネが、古典美術に反旗を翻し、破壊革命運動の発端としての印象派を創始した(古典の技法をまともに輸入していない日本の洋画家たちは、印象派がどれだけ破壊的な運動であったのか、という、本当の意味を知らないようです。ビジョンや技法の決定的な転換点であり、その意味ではピカソや抽象よりも、遥かに急進的なのです)。
それをセザンヌやゴッホなどの革命的巨人が継承し、さらに古典美術に対する破壊性を高めて、ピカソやマティスら二十世紀初頭の前衛美術の造形的理念的基盤を提供した。
そしてピカソやマティスらによって極限化された古典様式破壊(による新様式)が、シュールや表現主義その他の、ヨーロッパ美術の最後のあだ花どもを咲かせ、その花々の結んだ実から、モダニズムの極限、抽象美術が誕生したのです。
このように、モダニズムの破壊革命運動は、先代の者の革新的造形行為が、次の世代のための起爆剤のような造形的基礎として提供される、という連鎖をとっており、この点では、古典美術の変遷のしかたと類似しているのです。
ところが、抽象画のエポックが終焉した1960年代以降、こうした連鎖は断ち切れてしまいました。
後にはただ、革命行為によってボロボロに破壊された、美術の廃墟の中で、テロにも革命にもならない、一回性の花火を打ち上げては、「芸術は爆発だ!」と自慰行為のような前衛芸術家のうめきだけが残り、それもだんだん聴こえなくなりました。
そして、芸術は社会とともにありき、などといった標語が脅迫的に振りまかれ、造形芸術から阿保なパフォーマンス芸術に、美術の主流がシフトしたのです。
もちろん個々の作家は、いつの時代にも、新しいものを生み出す可能性は、もっています。
しかし、こんな時代には、モダニズムがメチャクチャに破壊してしまった、古典というものの遺骸を拾い集めることから始めないと、我々には継続的な造形的基盤を提供しうる本当の美術など、創造不可能なのではないか、という気がするのです。
  1. 2010/07/17(土) 11:34:43 |
  2. URL |
  3. hydorogen #r2..6obQ
  4. [ 編集]

時代について2

それから、どうも解せないことなのですが、フロンティアの存在が、批評家や画商たちの言う時代の趨勢(抽象画時代の終焉)の反論になっているのでしょうか?
たとえば、ピカソがキュビズムを描いている時代にも、古典主義美術のフロンティアだってあったでしょう。
だから、二十世紀になっても、古典主義美術の時代は終わった、というのが間違いだ、などといい始めたら、あらゆる時代に対する見方は、フロンティアの無限の可能性ゆえに不可能になってしまいます。
逆に言えば、そんなことは、時代考証の反論にはならないのです。
一方で、

モダニズムの終焉は鑑賞者レベルの見方。
抽象を牽引し一世を風靡した形式主義など批評家の言い分にすぎない。

ということで、重要視する必要なしということなら、
これら全てを「外野」と割り切っていったら、いったい何が、抽象画の時代の変遷を為す「内野」だったというのでしょう。
少なくとも、いつの時代にも当たり前といえば当たり前すぎる「フロンティアの可能性」というものと、具象画に対する悪態だけでは、批評家や画商の時代に対する見解を論破することは、とてもできないのではないでしょうか。

因みに、現在横浜そごうで、ひとりの「抽象画以降」のリアリズム作家の展覧会をやっています。
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/10/0717_kamoi/index.html
これもまた、独創性のない、限界だらけの作品なのでしょうか。
このような作家から見れば、写真を模したリアリズム作品など、ほとんど抽象的なコンセプト芸術に思えることでしょう。
  1. 2010/07/17(土) 19:25:36 |
  2. URL |
  3. hydorogen #r2..6obQ
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?

 結局の所ハイドロゲンさんは何を言いたいのだろうか。抽象なんか時代遅れでくだらないからやめろと言うことなのだろうか。そんなことをいくら叫ばれても、私はやめるつもりもないし、抽象表現を試みることを人に勧めることにも続けるでしょう。
 具象も抽象もそれぞれのジャンルであり、それぞれに可能性も問題点も含んでいることには違いが無い。鴨居さんの画業が最近のこの国の具象絵画において傑出していることは認めるが、彼の作品にも具象の限界との苦しい戦いの後が見て取れる。彼の自死の本当の原因は何だったのだろうか。
  1. 2010/07/18(日) 08:45:47 |
  2. URL |
  3. dantuku #drVJvYFs
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最後に

まあご不快であるならば、このようなコメント欄で述べるのはもう止めにしますが、私は抽象画が時代遅れだから止めろなどと言ったことはありません。
時代の趨勢を批判するならば、フロンティアなどという当たり前のことではなく、それなりの時代に対する認識と、いままで(特に抽象全盛時代に)抽象画を規定してきた理論に対する見直しが必要、と言ってきたのです。
それは当然、抽象画(あるいはその対極と思われていた具象)という概念の見直しにも関係してくるでしょう。
ご理解いただけなくて残念でしたが、私の挑発的な物言いにも問題があったのでしょう。
どうも失礼しました。

ちなみに鴨居の自殺は病理的要因が大きいのではないかと、個人的には考えています。
もともとしょっちゅう「死にたい死にたい」と漏らす、自殺願望の強い人だったですし、死の前にはある高名な批評家(こちらは本物のうつ病患者)とねんごろになり、相当な影響を受けたようです(死ぬ前にテレビ出演したときに、この批評家の言葉を自分のそれのように繰り返していました)。
彼等の死への願望がオーヴァーラップし強化されたのではないでしょうか。
まあ推測にすぎませんが。
実際、この批評家も、後を追うように数ヵ月後に亡くなっています。
  1. 2010/07/18(日) 14:58:16 |
  2. URL |
  3. hydorogen #r2..6obQ
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