市民のための美術入門3、抽象絵画のすすめ

描いてみたい人のための抽象絵画の考え方や描き方や入り方などについて、できるだけわかりやすい言葉で書いていきたい。姉妹編「1、油絵のすすめ」「2、デッサンのすすめ」とで「絵画とは何か」にも行き着きたい。

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国立新美術館

 5年毎見直しのための会場使用希望団体に対する抽選会が4月15日に行われました。
 24枠に対して応募が23団体であったため選外はありませんでした。我々の汎美展も現状通りで2017年度まで会場を使用できることになりました。
 もともと一室使用団体のみを大型展団体から差別し切り捨てると言う無茶な方針であったため、一室使用団体のうち11が集まって連絡協議会を作り館側と交渉を繰り返してきた結果、倍率の抑制策を取らざるをえなくなってこの結果になったと思われます。私の新聞投稿もいくらか影響したかもしれません。
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テーマ:美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2010/04/17(土) 08:37:51|
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公募展について5

 さてしかし公募展とは審査があるから公募展ではないのか。審査無しの公募展なんて考えられるか?。まず頭に浮かぶのはアンデパンダン展。以前は二つあったが今は一つだけになって、それがちょっとイデオロギー色があって、敬遠されがちな会。つまりもともとなにかバックアップがないと経営上行き詰まる性質のあるのがアンデパンダン。へたすると作品が多すぎたり少なすぎたりするし、展示位置などもイキアタリばったりで無責任になり勝ちだし、作品の質となると全く野放しでバラバラ。それにも増して主催者つまり事務方にメリットが全く無い、と言うことで何らかのバックアップが無ければ存続が難しい。
 発想の転換が必要である。これまでの公募展は審査をし作品を選別し賞を与えたりするためには何らかの求心的な権威が必要であり、理事とか委員とか会員とか会友とか一般とかいったヒエラルキー(階層性)が必要だった。上意下達の権力機構が必要だった。これに対して公募展も大きなグループ展に過ぎないと言う認識をもつべきだと言う発想の転換。
 グループ展は同好の仲間の集まりであり、その仲間を増やすには会員の紹介によるのが普通ではないか。公募展でも同様に考えればよい。会員が推薦する作家の作品を陳列する。そうすればある程度の出品者数の調節も効くし、何らかの意味での方向性や水準の維持も可能である。出品者は選ぶが出品作品の審査は行わなくて良いことになり、出品者は審査員の意思など忖度する必要は無く、自由に自分の出品作の制作に打ち込むことができる。
 私達はその実験を行っている。もっともその歴史は古く、昭和13年に汎美展は発足している。その当初から画家が画家の作品を審査するのは不当であるとして、会員が推薦する作家の作品を陳列するという公募推薦制を掲げていた。戦時下に消えかけていたものを我々が復活させて既に30年以上が経つ。その間に若干の紆余曲折があったが、今やこれが審査や権威主義に拠らない理想的な公募展の形と言えるまでに成長してきている。
 出品作の大きさや点数も自由にする。そのために一人当たりの使用できる壁面の幅を規定している。目下のところは5m以内である。展示位置は会員であろうと一般であろうと油彩であろうと水彩や版画であろうと、一切関わり無しに搬入時の抽選に基づいて公平に決められる。グループ展の拡大と考えるから入場料は取らない。その代わり展示や会場当番などは出品者の参加で行い経費を節約する。
 おかげで自由平等の至極明朗な雰囲気が表れ、多士済済のバラエティーに富んだ会場が出来上がる。難点は玉石混交になりがちだということ。これは切磋琢磨で出品者が自らの努力を怠らないと言うことで乗り切るしかない。そのためにも出品者同士の交流の機会を増やし、会場に活気を絶やさぬようにせねばならない。出品者に会場作成や当番に参画する機会を与えことが効果的であるし、ギャラリートーク「作品の前で語りあう会」や懇親会の実施も必要である。本展の他に秋季展も行って発表の機会を増やしてもいる。
 もう一つ基本的な問題点は、この行きかたでは事務局担当者にメリットは無く、全くのボランティア活動に依存せねばならないということ。ここでもやはりどこまでもこの会が自分の会だという意識の存在が鍵である。そのために徹底した民主的な態勢をとる。総会の決定の下に運営は運営委員会の判断によることになっているが、この会では会員全員が運営委員となっている。会員なら誰もが自由に委員会に出て発言できる。いかなる発言でも尊重して討議に付されていく。大事なのは特定の威張る人を作らないことである。
 もちろん理想的にうまく行っているわけではない。他人任せの依存心の強い人もいれば、展示位置に不服を言い出す人もいて、常に公平で理性的な対応を迫られる。その辺はなかなか難しく、この方式では、会の規模に限界があるのではないかとも考えている。
  1. 2010/04/07(水) 10:19:15|
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続々続公募展について

 代表的な幾つかの公募展の会場に入ると、息苦しさを覚える。会場狭しとびっしり並んだほぼ同じ大きさの一人一点づつの大作群、いずれも精一杯自ら持てる技術を発揮して見せており、しかも近頃はなぜか黒っぽいおもっ苦しい雰囲気の作品が多い。
 入選作の背後に同様の作品が何点も出品されていることを思い、このような公募展がいくつもあることを思うと、そこに費やされたであろう膨大なエネルギーの量に呆然とする。これだけのエネルギーがあればもっと世界的に評価される作家が輩出されても良さそうに思うのだが、公募展からは一向に世界的な作家は現われず、見てもなかなか心に訴えてくるような作品にはめぐり会えない。
 本当にこれらの作者たちは「自分の描きたいものを描きたいように描いている」のだろうか。もしそのように描いているなら、もう少し素直に見るものに訴えて来るものがあっても良さそうなものだと思う。エネルギーが誤った方向に捻じ曲げられ浪費されているのではないだろうか。何が捻じ曲げているか。答えは簡単である。主たる元凶は審査という奴。
 審査を通らねば展示してもらえず、合格しても審査員の目に留まって賞の候補にでもならなければ良い場所には展示されない。やっと審査を通っても、一点だけの作品が、2段掛けの上のほうの隅っこに飾られるのでは情けない。どうやったら審査員の目を引くことが出来るのかに出品者は悩む。その悩みが既に本来の制作の本筋から離れていることにも気付かないで、少しでも目立たせようとか、その会の風潮に合わせねばと言うあたりに汲々となる。まず作品の大きさはその会の規定の最大限の大きさで無ければならず、分りやすいのは作品の内容よりも技術であるから、うまいとかきれいとかどうやって描いたのか不思議がられる様な技法を売り物にしようとしたりする、あるいは調和を無視して黒を多用したコントラストの強い画面を無理に造ったりする。
 登竜門を通って絵を売れる身分になりたいと思うのならそれも良いだろう。しかし美術とは本来表現であり創造であるはずだ。表現と創造の喜びが作者突き動かして形になったものが美術作品ではないか。誰かに気に入られたいとか審査員の意向を思い計ったりして制作したのでは、本当の表現や創造を行えるはずが無い。

テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2010/04/06(火) 19:00:57|
  2. 絵画
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続々・公募展について

 画壇の登竜門という公募展への期待は、しかし、目下凋落の一途を辿っていると見て良いのではないか。都美術館が新築された30数年前、公募展の数が急増すると共にマスコミが、その対応できる範囲を超えたせいか、公募展紹介からどんどん撤退してしまって、今や3大新聞もテレビも公募展に関してはノータッチ。という辺りから凋落は始まったと思われる。
 それに伴い出品者側の意識も大きく変わってしまった。以前は美大の卒業生の殆どが公募展に参加して才能に合った地位を得ることを望んだが、その比率はどんどん低下して、公募展に出品する者が珍しいくらいになってきてしまっている。今では、美大在学中に才能を認められた者には公募展とは関係なく、その才能を売る市場がいろいろな形で広がってきている。
 代わって公募展に新たに参加してくる出品者の主力は今や、定年後のリタイヤ組みや本業の傍ら趣味としてはじめた中高年層である。彼らもアワヨクバ名を売り絵を売れるようになって、画壇の一画に参加したいと言う欲望は多かれ少なかれ持ってはいるだろうが、それよりも別の欲求により強く動かされているようだ。彼らの多くは自分の作品を商品として制作するのではなくて純粋に楽しみとして描きたいと思っている。描くこと自体が楽しいのであり、展覧会への出品は自分の才能や表現した内面を発表したいと言う衝動による。
 いくら描いてもそれを発表して他人に見てもらわなければつまらないのである。それは絵画が表現である以上当然の成り行き。発表する場所としては個展やグループ展などがあるが、手っ取り早いのが公募展ということになる。公募展ならお金もそんなにかからないし、不特定多数の人に見てもらえる。さらに都合の良いことには、公募団体の中で同好の士に出会える。作品について語り合うことのできる仲間が出来る。このことは重要だ。美術作品は今や表現媒体である。作品を見れば、言葉で語るより多くのその作者の内面的な性格や世界観などの情報が得られる。お互い、より深い付き合いができると言うものだ。作品を見せ合い語り合うことで技術や美術界に関する情報も得られ、今後の制作の資にすることが出来る。切磋琢磨と言うやつ。
 さてそこで問題は、今の公募展がこのような出品者の欲求に見合う体制をとっているかと言うこと。出品者が変わってきているのだから公募展の目標や体制も変化しなければならないはずなのに、未だに多くの公募展が古臭い登竜門伝説にすがり付いているのではないか。そのため広大な公募展出品者層というこの国独自の美術界の底辺が、裏切られ捻じ曲げられ生かされてないというのが実情ではないだろうか。世界的に認められる才能は今や全く公募展以外のところから現われている。広大な底辺とは無関係に。

テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2010/04/01(木) 18:46:20|
  2. 絵画
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