市民のための美術入門3、抽象絵画のすすめ

描いてみたい人のための抽象絵画の考え方や描き方や入り方などについて、できるだけわかりやすい言葉で書いていきたい。姉妹編「1、油絵のすすめ」「2、デッサンのすすめ」とで「絵画とは何か」にも行き着きたい。

オリンピックが終わった。

 結構テレビ観戦に時間をとられた。気分的にも影響があって、この間、本来の安定した制作体勢に入れなかった。100号1点描いたが不満の残る結果になって、塗りつぶそうかと迷っている。
 結局7月半ばの個展開始以来一ヶ月以上、制作らしい制作をしていないことになる。私としては珍しいことだ。
  1. 2008/08/25(月) 09:08:54|
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個展終わって

 展覧会はお祭の一種だと思うことにしています。年に一度お神輿担いでわっしょいと燃焼し、他人と交流する、そんなお祭と同じようなものと。
 公募展やグループ展ではまず仲間同士の交流があります。行動展などでは、日本中から集まってきてお互い久闊を叙するというような情景が繰り返されます。お神輿であるところの作品を担いでの他人との交流。作品は作者の内面世界の表現ですから、それを背景にしての他者へのアクセスが期待されます。
 そして終わればまた孤独に返って、数日間のはしゃぎも消え、元の木阿弥かなという無力感が残ります。お祭なら地域の人々の連帯心が醸成され、次のお祭までの間の各人の心の支えになります。そして次の祭への期待が地域の連帯心を更に強いものにしていきます。
 個展の場合はどうでしょう。特に私の作品のような勝手気ままに描いてきた抽象作品にたくされた表現が見る人の心にどれだけ伝わってくれたのか、その辺はさっぱりわかりません。若い頃は問題作を披露して世に衝撃を与えてやろうとかいった意気込みがありましたが、近頃は折角表現としての作品を作ったのだから、発表しなくては意味が無いなと言うくらいの気持ちしかありません。
 しかし、結構多くの方々に見ていただいて、いろいろ感想なども伺って、少なくとも多くの作品を一堂に並べた甲斐はあるのです。一つ一つの作品がお互いとの関係の中で、それぞれの意味を持って見えてくると言う収穫は得られます。それが次の制作につながる何らかの判断を生み出してくれるようなのです。
 さてこれからどうして行きましょうか。何をいかに描くべきなのでしょうか。理想としてはウングワレー女史のように無心に描くこと。彼女の場合は夢中になって描くうちに自然に、宇宙的な生命といった根源的なものにつながっていた。現代のこの異様な時代に生きる私は無心に描くことで、何かに結びつくことができるのでしょうか。
  1. 2008/07/25(金) 10:16:34|
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エミリー・ウングワレー展

 描きたいものを描きたいように描くといえば簡単に聞こえるが、実際は生易しいことではない。何を描くべきか、いかに描くべきかは描く者の永遠の課題でしょう。などと考えていましたが、この展覧会はそんな思いを吹き飛ばす迫力に満ちたものでした。
 確かに描きたいものを実に率直に自由に生き生きと描いている。それでいて見るものの眼を引きつける、強力なリアリティーのある画面を作り出している。これなら抽象はわからないといってる人にもわかるでしょう。
 生年も確定できないアポリジニーのおばあちゃん。祭祀用のボディーペインティングを描いてはいたけれど、70歳ころからバティック(ろうけつ染め)を始め、80歳ころからキャンバスにアクリルで描き始めて、亡くなるまでの約8年間に3000点以上の作品を描いた。それも、たたみ10畳くらいの大作もいくつもある。床などに広げて四方から時にはキャンバスの上に座り込んで描いたから、上下(天地)も決まっていなくて、どちらを上にして展示してもかまわないという。確かにどちらから見ても迫力に変わりがない。
 描いた内容について聞かれれば、生地の岩や生き物や自然、なかでも生を支えるヤム(芋)やアフェイリエ(女性に施される祭祀用の装飾など)と答えたそうだが、見るものには宇宙や生命の根源のエネルギーのようなものが感じられる。これはまさに抽象表現の原点であり終着点でもあり、ピカソやポロックが追い求めて到達した地点から、このおばあちゃんは至極自然にやすやすと出発している。もちろん専門の教育も受けず、現代の美術の潮流などとは全く無縁に。
 抽象表現を志す人はもちろん、描く人美術にに関心のある人は皆見て欲しい。絵画とは何かという問いへの明らかな一つの答えがここにある。
 7月28日まで国立新美術館で開催中。
  1. 2008/06/21(土) 09:42:22|
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具象と抽象

 一般的には、一目で何かとわかるようなものの形を描いてないから抽象絵画です。何か具体的な形とわかるものが描いてあれば具象でしょう。
 しかしこの両者の境界はまことに漠然としています。
 例えばクレーの作品群。殆どの作品に人や鳥や魚やピラミッドなどの形が読み取れますが、純粋に抽象的な形体だけで構成されている作品もあります。そしてそのいずれの作品にも共通する感動の源は、音楽的なリズム感と微妙な美しい色彩から来る不思議な詩情を伴った愉悦感です。それは抽象と具象の境界を全く感じさせません。
 また例えば写実の代表のように見えるレンブラントの作品。同時代にも数多の写実画家がいる中でひときわ抜きん出て評価されるのは、彼の作品から受ける感動が、ただうまくきれいにそっくり描いていることから受ける感動とは別の、もっと奥の深い思想的なものまで感じさせるものだからでしょう。
 クレーが「絵画は目に見えないものを見させるもの」と言ったのは、このような目に見える形や色を超えて表現される精神的な感動のことを言っているのです。
 もともと人間の目にとって、全く純粋に抽象的な形態というのは存在し得ないのかもしれません。徹底してそれを追及したモンドリアンの作品においてすら、町並みや建造物などを全く連想せずに見ることは無理ではないでしょうか。垂直線一本にも、一滴の雨や建物の一部や杉の幹等の連想が働きます。また写生は抽象の始まりといわれるように、いかにそっくり描こうとしてもいくらかなりともの単純化や構成化の操作なしに物を描くことはできません。
 私はイメージの自由な展開を望むことから、具体的にすぐわかる形を避けてきました。しかし一本の線を引くに当たっても一つの色を選ぶに当たっても、具体的なイメージから逃れることはできません。雲や木立や波や、流水や人の筋肉の動きや内臓や、風や太陽や星などなどのイメージは遠慮なく画面に導入しています。ですから見る人が勝手にいろいろなイメージを私の画面に見出してもそれは結構なことだと思っています。
 結局絵画に具象や抽象の区別は無く、作者から観者に伝わる何らかの感動の有無が問題なのです。
  1. 2008/05/27(火) 09:48:54|
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抽象絵画とデッサン力

 絵画の基礎勉強と言われるデッサンだが、抽象画を描く人には関係ないものと考えられがちだ。たしかにデッサンから学ぶものを描写技術とだけ考えれば関係ないように見える。
 しかしものの形を正確に描写するには、絶えず相対的な位置関係や比例関係、角度や距離を確かめねばならない。陰影明暗を正確に判断するためには、光の方向と面の角度に敏感でなければならないし、画面全体の中での相対的な度合いを確かめていかねばならない。それらを直感的に把握できる能力がデッサン力ではないだろうか。
 デッサン力はその故に対象(モチーフ)の周辺をも含めて、一定の広がりの空間全体を把握する能力と密接に結びついている。抽象を描くときにキャンバスなどの空間をきちんと把握できなければ、密度のある(リアリティーのある)空間を創造することは出来ない。
 また、デッサン力を身につけた者の視覚は常に、対象を造形的に把握することができる眼である。自然のあらゆる美、あらゆる新鮮な形態や色彩や陰影を観察し把握することができる。そこから得た感動は抽象表現の原動力になりえる。
 なお描写においても、人は必然的に対象を大なり小なり単純化したり構成化したりして認識する。写生は抽象の始まりと言われるゆえんである。デッサンにおいても、抽象化や構成的なあるいは表現的なデフォルメの操作が加えられても良い。そのような経験は抽象表現の内容を豊かにするだろう。
  1. 2008/04/26(土) 09:27:57|
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