市民のための美術入門3、抽象絵画のすすめ

描いてみたい人のための抽象絵画の考え方や描き方や入り方などについて、できるだけわかりやすい言葉で書いていきたい。姉妹編「1、油絵のすすめ」「2、デッサンのすすめ」とで「絵画とは何か」にも行き着きたい。

7月になった

 5月に描き始めた200号は不満足のまま6月はじめに制作を打ち切った。6月に始めた150号も行き詰っている。毎度のことながら、苦しい時期だ。昨年は4月の沖縄旅行の印象が画面に表れて、200号の方はわりとすっきり明るい感じでまとまってくれた。それでも一旦打ち切ったものを150号の後でもう一度引っ張り出して手を加えて、完成としたのだった。150号もその頃起きた悲惨な事件の印象が、途中からある程度制作の方向付けをしてくれた。
 今年は最初から全く暗中模索で筆をすすめている。確たるよりどころとなるイメージが無く、ただひたすらそのときそのときそのとき良かれと思うように色を選び塗ってきた。たいていは制作のある段階で方向が明らかになってくるのだが、今年は一向にそれが現われない。キャンバスとのにらめっこが続く。これかなと思って筆を執りさえすれば、それでも結構夢中で筆をすすめるのだが、筆をおいてしばらく経ってみると不満が表れる。そこでまたそれに対応して手を加えていく。結果として画面は妙に複雑になりおもっ苦しい雰囲気になってくる。スッキリした作品を描きたいと言う気持ちに逆行して行くばかりだ。
 考えて見れば日常の生活そのものがスッキリしていない。何かしらもやもやした不安や行き詰まり感が私を取り巻いている。経済も政情も外交もモタモタモヤモヤで、環境でも財政でも負債を後へ後へと残すようなことの繰り返し。これでは未来に希望など持てはしない。総選挙が近づいているが、政権交代したところで大して変化は見られそうもない。その上私自身に付いて言えば、着実な老化の進行があり、肉体的に精神的にも年々弱っていくのが目に見える。そして誰にでも確実に来る終着点、無に帰ることへの不安。そんななかではスッキリした作品など生まれるわけが無い、混濁した表現しかできないのではないか、と腹をくくるしかないのかもしれない。

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  1. 2009/07/01(水) 08:50:07|
  2. 絵画
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再度お願い

このブログは、絶版になってしまった一冊の本に基づいて書いてあります。
是非その最初のページから順に、読んでいただきたいと思います。
右下欄外のリンクの中の「ここから読んで」をクリックしてください。
そうすれば最初の文章が出てきます。
  1. 2009/05/31(日) 08:10:08|
  2. 絵画入門
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二刀流?

 私は私のホームページを作り上げたときには私を二刀流の画家として、描写と抽象表現の両輪があいまって私の表現世界を深めてきたと書いた。そのため両者を対等に扱ったホームページを作った。
 今でもその基本的な考えには変わりは無いが、近頃は、やはり私の本当の仕事は抽象表現にあるのであって、描写は抽象表現のための感覚の練磨に必要な課程であるとして位置づけされるべきものではないかと思うようになって来ている。描写は私にとって、あくまでも感覚のトレーニングとしてのデッサンにすぎないのだとの判断である。
 一昨日も仲間と出かけて、雪をかぶった春の山を油絵で描いてきた。楽しかった。モチーフの印象を如何にキャンバス上に再現するかはなかなか困難な仕事ではあるが、抽象表現に比べれば明確な対象があり具体的な指示が与えられているだけに、容易であり気楽な作業である。抽象表現の徹頭徹尾自己の感覚と判断に従って進めねばならぬ作業とは、全く異なった性質の仕事であると思う。

テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2009/05/01(金) 09:47:18|
  2. 絵画
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抽象の時代は去ったか?

 さる美術家団体の機関紙に「ニューヨークでもパリでも、抽象絵画は過去のものとして画商たちから相手にされなくなっている、」というようなことで抽象の時代は終わったと言う記事が出ていた。
 たしかに近年のコンテンポラリーアートの動きを見ても抽象表現は少なくなり、具象と言うか具体とでも言うべきかものや映像に頼った表現がはばをきかせている。日本では特に、写真的な細密な描写技術を競うがごとき傾向が活発化しているように見える。しかしその殆どの作品を見るに、私には具象の限界がありありと見えるように思われて興ざめすることが多いのだ。行き着くところは結局写真ではないのか。写真技術の発達に具象絵画は追いつけるのだろうかと思ってしまう。せいぜい印象派風とかセザンヌ風とかあるいはクリムト風とかアレンジしてみても、本当の意味での独創的な表現の可能性は表れて来ていない。
 一方、抽象の表現性には限界があり、既にその可能性は今までの作家によってほぼ試みつくされてしまっているのかもしれないとも思うが、それは具象だって同じようなことだと思う。
 売れるかどうかと言うことでなら確かに、具象の方が一目見た眼に分りやすいから売れるだろう。しかし描く立場からして、どちらが描いて面白いかと言うことで比較してみれば、どっちもどっちではないかと思う。
 これまで抽象を描き続けてきた私にとっては、抽象で追及するべき世界はまだまだ広がっており、一点描くたびに新しい世界が広がってくるように見える。それに日本国内で見るなら、今やっと抽象が一般的に認められてきたと言うくらいの段階に見える。この数年、身の回りに抽象表現を試みる人が増えてきつつあり、気軽に抽象表現を楽しもうという雰囲気も広がりつつあると思う。
  1. 2009/03/30(月) 09:45:22|
  2. 絵画
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抽象作品の題名

 具象でもそうだけれども、抽象ではなおさら題名が理解の手がかりになる度合いが高いですから、おろそかにはできません。クレーなどのように、まさにぴったりと思われる題名の付け方ができると良いのですが、あれは鋭い詩人の感覚があってのことで、我々のような文学的凡人には無理な話。
 私も題名を付けるに当たっては毎度四苦八苦。作品は日記と思うから日付だけで良いとも思うのですが、見てくれる人たちがやはり何か手がかりが欲しいとおっしゃる。ひところはなんとでも取れるようにと、漢字の一字を日付の後にくっつけて済ませていましたが、ときどきもっと具体的な題名をつけたくなることもあって、最近はもう少し長い題名を付けるようになってきています。
 制作の過程はコンポジションに対する追求が殆どですが、一筆ごとに、解答がいくつもあるクイズみたいなもので一つの回答を出すについては、色にしても形にしても自分のそのときの気分感情が入り込むわけで、結局出来た作品はそのときの自分の気分信条感覚の表現を多分に含んだものになる。
 と言うわけで日記のようなものだと思うのです。
 そこで制作中に私の気分感情思索を最も左右していた事象があったら、それを題名にしようと近頃は心掛けています。制作の割りに早い時期にそれが決まってくると、その題名によって色彩や形態の選択が行われる場合も多いわけで、相当題名に沿った作品も出来ますが、最後まで決まらなくて、あとからむりやりにきめることも多いのです。
 今回行動Tokyo展に出した作品は「はじめの刻」と「白い刻」で、「はじめ」の方は富士登山中の黎明のイメージが影響したかなと言う思いはあったが、題名としてはどう付けたら良いかわからずにいて、もう一点ができたときに白昼のイメージを感じたから「刻」をキーワードにして両方の題名を決めました。これから始まる汎美展の3点については制作が難航し、いずれもまとまりの悪い混乱した構図になってしまったのですが、けっきょくこれはこの間の私自身の内面が混乱していてまとまらなかったのだということで、不安定で先行きの見えない世相の反映がそこにあってこのような表現になってしまったのだろうときめて、「はたんがくる」「はけんはきられる」「ガザ・たまごとかべ」と名付ける事にしました。もっともその題名に沿って描いたわけではないから、その他の日常の気分感情も入っているわけで、やはり日記としての制作年月も加えます
  1. 2009/02/27(金) 09:24:46|
  2. 絵画
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